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東京地方裁判所 昭和42年(ワ)1131号 判決

原告 吉原松江

右訴訟代理人弁護士 原長一

同 大塚功男

同 佐藤寛

被告 社会福祉法人慈生会

右代表者理事 エミリアン・ミルサン

右訴訟代理人弁護士 高田利広

主文

原告の請求を棄却する。

訴訟費用は原告の負担とする。

事実

一  原告の請求の趣旨及び請求原因

別紙訴状写及び昭和四二年七月一七日付準備書面写のとおり。

二  被告の答弁

別紙答弁書写、昭和四二年八月一五日付、昭和四四年九月三日付各準備書面写のとおり。

三  証拠≪省略≫

理由

原告の子訴外亡吉原秀一(昭和二七年八月一一日生れ、当一四才)が被告の経営する病院に入院中昭和四一年一一月一日午後同病院の窓から飛びおり死亡したことは当事者間に争いがなく、同病院が坂本病院であり、飛びおりた窓が同病院の三階の窓であることは、本件口頭弁論の全趣旨からこれを認めることができる。

原告は、右秀一の死は、被告病院の医師太田、佐山及び看護婦長カリタスの注意義務違反によるものであると主張するので、この点について判断する。

≪証拠省略≫を総合すると次の事実が認められる。

(一)  秀一は昭和四一年五月被告経営の坂本病院に入院して、ネフローゼ型腎炎と診断され、同病院医師佐山楓が担当医となったが、じらい同年九月下旬頃までは病状は一進一退を続け、かなり重症であったけれども、その後蛋白も減少し全身の浮腫も認められない状態までに回復し、ネフローゼの症状も次第に好転し、佐山も秀一に心配しないようにと告げていた。もっとも同年七月頃に院長の太田医師は原告から、女医の佐山のほかに男性の医師による患者への説得力や影響力を期待するため太田医師の回診をも要望されたので、その頃から主治医のほか太田医師も原告と秀一の両名に安心感を与える配慮から、二人で回診するようになった。

(二)  右の病気は時間のかかる難病の一つであって患者も病状に神経を使うことが一般であるが、秀一は毎日の尿量とか浮腫に強い関心を持っており、加えて、原告も、母親の気持としては当然のところもあるが、医師側からみると、尿量や蛋白との関係について熱心すぎる位の関心を示し、かつ、秀一を元気づけるためにたえず説得激励することが多過ぎるように思われる位であった。

(三)  他方秀一は風邪にかかることを心配し、風邪をひいて微熱を出したりすると非常に神経を使う性質で、口数も少なく温和しい子であった。同年一〇月二五日後からも二、三日風邪をひき三七度五分位から三八度位の体温であった(一一月一日の後記の事故直前には三六度五分位であった)。しかし同年一〇月下旬には病状も大分好転して浮腫も減少し、主治医の佐山も秀一に対して風邪さえひかなければ大丈夫だと告げたところ、同人も安心した位であった。ところが、一〇月三一日秀一は綿入れを着こみ厚いふとんをかぶってベッドに入り汗びっしょりになり、丁度来院した原告に寒い寒いといって訴えたので、原告からの報告を受けた佐山医師は秀一を診察したが、佐山は浮腫が引く場合に起る「ふるえ」の現象でもあり、秀一が風邪をひくのがこわくてそのような態度をとっているものと判断して、特に心身に異常があるとは認めなかった。

(四)  同年一一月一日朝、佐山は秀一を診察したが特に異常は認められなかった。同日午後一時頃原告夫婦が秀一を見舞ったが、その際秀一はキナジオン錠入りの薬品袋(これは、佐山が、薬局を経ると費用がかかるので、原告に好意的に渡していた数袋中の一個である)の裏面に印刷してある副作用という文字を原告にみせて、副作用が出たからもうだめだよと泣きそうな声でいった。またその後、時刻は明らかでないが秀一が原告に、「もう考えがまとまらなくなった。もう頭の整理ができなくなった。窓から飛びおりたくなったんだ。」と口走ったので、原告は驚き、秀一を病室の窓ぎわに呼んで「下をみてごらん。こんな高いところからおりて死ねるか。」といいきかせた。山口看護婦長もこの情景を目撃していたが、同人は原告の態度がきびしいし、もう少しいたわりの言葉があってもよいと思う位であった。しかし原告は、秀一の態度が心配になり、秀一を二、三日自宅に連れ帰りたいと思い、秀一にその旨告げたところ、秀一も同意した。そこで原告は主治医の佐山の許可を求めたところ、佐山は、病状もよくなってきているし、食餌療法も自宅では難かしいし、もし連れて帰って腎蔵が悪くなったらどうしますかといったが、原告は承服しないので、佐山は太田医師から原告を説得してもらおうと思って、原告に対し太田医師に相談するよう申し向けた。

原告は太田医師の部屋の前で待っていたとき、佐山が通りかかり、佐山は、原告が太田と相談していないことを聞いたので、太田の部屋に入り、しばらくして退室してきたが、原告に対して、太田先生は二、三日病院にこない方が秀一のためにもよいといっていましたよと告げた。原告は太田医師に会わないで、病室に帰り、秀一に対し、家に帰って腎蔵が悪くなったら責任をもてないといっているよと告げると、秀一は、それもそうだねといったが、落着かない風であった。そこで原告の夫婦は秀一を元気づけるため秀一を同病院の屋上につれて行き、病室に帰ったところ、太田医師から呼ばれたので、原告は、太田医師の二、三の問いに簡単な答えをして、太田先生から子供によくいいきかせてやってほしいという趣旨のことを述べこれを依頼した。それから原告は病室に帰り、帰宅しようとしたところ、秀一は同病室の隣りの女子患者の三人部屋に逃げこみ、空いたベッドに休もうとしたので、山口看護婦長が秀一を連れもどそうとしたが、自分のベッドに帰ろうとしないので、隣りの男子患者の三人部屋の病室の真中の空ベッドに移した。その際、秀一は暴れたり、危害を加えるような行為をしなかった。原告の夫婦は看護婦長の素振りから自分達が秀一の傍にいない方がいいと察して同病院を辞した。(その時刻は明らかでない)。

(五)  山口看護婦長は、午後三時過ぎ頃(その正確な時刻は明らかでない)、佐山医師の指示によって秀一にウインタミンの鎮静剤の注射をし、二、三〇分秀一を見守っていたが、特に変った事情がなく温和しくしていたので、回診の準備のため、同病室を出た。同日午後四時前後頃(その正確な時刻は明らかでない。)太田医師の回診が行なわれたが、秀一の病室の他の患者訴外中里見典義の診察をしているとき、秀一が部屋を出てゆくのを認めたけれども、同婦長は、秀一が便所にでも行くものと思い足のふらつき状態に注意したが、異常がなかったので気にとめないでいた。それからほとんど間もなく秀一は同病院三階の窓から飛びおり自殺した。なお、秀一の入院中、中頃から終り頃にかけて、主治医の佐山は原告から秀一がノイローゼではないかという申入れを二、三回受けたが、佐山も太田も秀一にノイローゼの兆候はなく、神経科に廻す必要はないと診断していたものである。

以上の諸事実が認められる。そして、≪証拠省略≫のなかには、右認定に反する部分があるけれども、それらの証拠を彼此総合した結果右のような事実が認められるのであって、右認定に反する部分は、右認定事実にてらしてたやすく措信できないし、原告本人尋問(第二回)の結果についても、右と同様のことがいわれうるのである。そして他に右事実を動かすに足る証拠はない。

次に、≪証拠省略≫によると、秀一は右の自殺をする前に「さようなら」とちり紙に遺書のようなものを書いておいたことが認められ、他にこれを動かすに足る証拠はない。

以上認定の事実関係のもとにおいて、秀一の右自殺行為の原因が何であったかを確認することは困難であり、かつ、その自殺が被告側の太田、佐山の両医師、看護婦長等の診断、看護上の注意義務の違反によるものであると認めることは更に困難であり、その他原告の前記主張を肯認するに足る証拠はない。

もっとも、原告にしてみれば、秀一の右事故直前、秀一を自宅に連れ帰ることについて再三佐山医師に対し許可を求めたのに、いれられなかったため、もし許可を得て自宅に連れ帰っておれば、このような事故を避け得たであろうという思いは、いつまでも諦らめ切れないものとして残ることであろう。結果的にみると、秀一の心の中をそのように捉えたことは、母親の持つ直感であったということもできよう。しかし、前記認定の事実関係において、病状の好転しつつある秀一を自宅に連れ帰ることを許可しなかったことは、佐山や太田の医師としての立場からもっともと考えられるところもあるのであって、また原告も秀一も、結局は佐山の説得を聞きいれて自宅に帰ることを断念したことは前記認定のとおりである。また本件において、秀一が精神科医による治療を要する程にノイローゼの病状を有し、又は更に進んで生命に危険を生ずる程度にいたっていたことを認めるに足る証拠はないのである。

結局、本件にあらわれた全証拠によって、秀一の自殺を予見しえなかったことが被告側の医師、婦長等の責任であるとすることはできないものと解するのが相当である。

よって、原告の本訴請求は理由がないからこれを棄却すべく、訴訟費用の負担について民事訴訟法八九条を適用して主文のとおり判決する。

(裁判官 緒方節郎)

〈以下省略〉

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